和紙作家の堀木エリ子さんがNHKEテレ「SWITCHインタビュー」に出演されて注目を集めています。
堀木エリ子さんは若い頃に癌にかかった事があるそうです。
そこで今回は、堀木エリ子さんの癌は何がんで年齢は何歳の時だったのか?
現在はどうなのか?などについて調べてみました。
堀木エリ子さんについては、他に2つの記事がありますので合わせてご覧ください。
堀木エリ子の経歴やプロフィール、結婚や夫、子供。学歴や前職など
堀木エリ子のショールーム(展示場)の場所、代表作品の画像まとめ
堀木エリ子の癌は何がん?年齢は何歳の時?
堀木エリ子さんは1962年1月に京都で生まれ、大阪で育ちました。
学生時代の堀木エリ子さん
堀木エリ子さんは「女の子は赤、男の子は青」と言われたら、「私は黄色!」と言ったりするような、人と一緒は嫌で負けず嫌いな子供時代。
3歳年上のお兄さんがいて、いつも外で遊ぶわんぱくな女の子だった堀木エリ子さん。
高校に入学してからは陸上部に入り、種目はもっとも過酷と言われる400m。
「もっとも過酷、と言われてることに挑戦したくなるんです」と堀木エリ子はラジオで語っています。
高校を卒業後は都市銀行に就職
堀木エリ子さんは高校を卒業後、1980年4月に住友銀行へ就職します。
大学に進学して1つの学科を専攻するより、社会に出て色々な事を学びたいと考えた堀木エリ子さん。
高校の先生に「どこがいいの?」と聞いたら、「そりゃ銀行やで!」と言われたそうですw
ディスコで知り合った名物おじさんに誘われて転職
堀木エリ子さんは大学の代わりにと思って銀行に入ったので、だいたい4年くらい勤めるつもりだったそうです。
ちょうど4年経った頃、バブルという時代背景もあり毎週末ディスコに通っていた堀木エリ子さんは、そこでその後の人生を左右する男性に出会います。
そして、
と男性に言われたそうです。
手びき和紙の商品開発の会社へ転職
ちょうど銀行の次の仕事をどうしようかと思っていた堀木エリ子さん。
ディスコで知り合った男性の息子さんが新しく興した会社「(株)紙屋院」に行ってみると、たまたま手漉き和紙の商品開発の会社でした。
そして1984年10月に住友銀行から(株)紙屋院へ転職。
4人ぐらいの小さい会社で、堀木エリ子さんは事務や経理を担当していましたが、2年後の1986年9月に会社が閉鎖に追い込まれてしまいます。
理由は、手びきでいくら素晴らしい和紙の商品を作っても、機械びきや洋紙の類似品が半年~1年後に出てしまい、価格競争で負けてしまうからでした。
本格的に和紙の世界へ
価格競争に敗れ、勤めていた会社が潰れてしまうという事を経験した堀木エリ子さん。
冷たい水に手を浸し、手間暇をかけて紙を漉(す)いてた職人さんたちの尊い仕事が無くなってしまうと思った時に、「何とかしなくちゃ」と思ったのが、和紙の世界に関わる最初のきっかけだったそうです。
閉鎖した会社の社長さんに、自分が和紙の世界を担っていくにはどうすれば良いかを相談。
すると、文化に対して凄く理解がある京都の呉服問屋の社長さんに支援をお願いしたらどうかとアドバイスをもらったそうです。
そして、その呉服問屋の一事業部として1987年7月、25歳の時に「SHIMUS」という会社を立ち上げます。
未経験からのスタート
それまで堀木エリ子さんは、デザイナーや経営者になりたいと考えたことは一切なかったそうです。
ラッピングや祝儀袋、レターセットなど、1回使うと捨てられるような商品では、使えば使うほど質感が増し、強度も衰えない手漉きの和紙の利点が活かされないと考えた堀木エリ子さん。
手漉きの和紙で勝負するなら長く使える土俵で相撲を取らないと勝てないと考え、建築インテリアのジャンルに目を付けます。
全員から反対され落ち込む
そして、呉服問屋さんからも支援してもらいながらブランドを立ち上げた堀木エリ子さん。
しかし、
と100人の友達に相談したら、相談していない人からも電話がかかってきたりして120人から反対され、その時は本当に落ち込んだそうです。
それでも堀木エリ子さんは、縄文時代や弥生時代に作られ時代を超えて人々を感動させている埴輪や土偶を作ったのは、大学や専門学校に行って勉強した人ではなく、一生活者が作ったものだから自分にもできる筈だと考えます。
そして「人間はみんなクリエイターじゃないか」と自信を持つようになり、そこから奮起。
どの時代も人間がモノを作るのは、自然に対する畏敬の気持ち、人に対する畏敬の気持ちから手を動かしてきたと気が付いたんだそうです。
悪性の癌が見つかり入院
その後、堀木エリ子さんは1988年7月に「小田章ビル SHIMUSショールーム」を開設。
2000年4月の38歳で「㈱堀木エリ子&アソシエイツ」を設立。
同じ年に「太秦工房および太秦ショールーム」を開設します。
しかし、39歳~40歳の誕生日をまたぐ時期に悪性の癌が見つかり入院。
最終的には「覚悟して下さい」と言われたそうです。
それまでは、私にはそういうことは起こらないと、頭のどこかで考えてたんですけど、それが起きたときに死ぬことと向き合ったんです。でも後から思うと、死ぬことと向き合うことで生きることがわかったんです。気が付いたことは、人間って死にざまは選べないってこと。病気になったけど、自覚症状がなくて余命何カ月と言われるかもしれないし。
出典:https://www.tbsradio.jp/より
堀木エリ子さんは当時を振り返り、ラジオでこのように語っていました。
堀木エリ子さんがかかった癌は、子宮ガン。
お腹を切って全摘出した時は本当に落ち込んだそうです。
癌を克服した堀木エリ子さんの現在の目標は?
40歳で子宮ガンを経験し、人間は死にざまを選べないことに気が付いた堀木エリ子さん。
と同時に、「生き様は選べる」という事にも気付いたそうです。
堀木エリ子さんは生き様について考え、結局は人の役に立つことじゃないかという答えにたどり着きます。
子宮ガンになった当時、和紙の経験が10年を超えていた堀木エリ子さんは、和紙を通じて人の役に立つことが生き様に通じると思うようになり、そこから考え方が変わって生きる力が湧いてきたそうです。
癌から15年以上たった現在、今後の目標について質問された堀木エリ子さんは、
私自身は目標っていつも立てないんです。何が目標かと言うと、時代の要望に応えること。常にお客様の要望に応えて、無理難題に対して「できない」とは絶対言わない。
できないだろうと思っていたことができていくのは楽しいですよね。私「流石」っていう言葉が好きで、お客様から「流石!」と言われるような仕事をしたい。流石っていうのは期待通りかそれ以上じゃないと絶対出てこない言葉なので。
出典:https://www.tbsradio.jp/より
このように答えています。(2019年9月のラジオにて)
大病したときの自分への手紙
堀木エリ子さんは、39歳から40歳の誕生日をまたぐ時期に子宮がんで入院していて、最終的にな「覚悟して下さい」と言われたそうです。
堀木エリ子さんは「時間デザイン」の企画「拝啓 あの日の自分」で、子宮がんになった時の自分に対して手紙を書いています。
大病したときの自分へ
呉服問屋から独立して、「さあ、これから!」というときに、悪性のがんが見つかった。それまでは、自分が死ぬということなんて、考えたことがなかったので、とにかく焦った。でも、はじめて真剣に「死」と向き合ってわかったことは、人間、「死に様」は選べないということ。でも、「生き様」だけは選べるということに気がついた。
日々なりゆきで過ごすのはもったいない。もっと自分自身と向き合って生きないと。そのためには、自分に対する時代や社会の要望をきちんと受け止めて、人の役に立たないといけない。つまり「利他」こそが私の生き様なんだと。それが、今日の私につながる気づきになった。
もし、あの大病をしていなかったら、利他という気づきは生まれなかったかもしれない。当時、病気はとてもつらい経験だったけれど、悪いことが起こっても、悪いままでは終わらないようにと深く考え、見つけたパッションが、今を生きる私の人生を豊かにしてくれている。出典:時間デザインHPより
堀木エリ子さんについては、他に2つの記事がありますので合わせてご覧ください。

