クリスマスといえば、ケンタッキー・フライド・チキン。
CMでも賀来賢人さんが新キャラクターとして登場されるなど、その人気は不動のものとなっています。
現在日本では、直営店とフランチャイズ店合わせると1200店舗もあるそうです。
世界には20000店舗以上あるといわれています。
そんな、KFCですが創業者であるカーネル・サンダース氏はみなさんご存じだと思います。
ですが、どうやって今のような世界規模の大きなファストフード店となったのか。
そのカギは、創業者であるカーネル・サンダース氏の生きざまであると感じます。
最後まであきらめない強い気持ちが成功を導いたのでしょう。
今回は、KFCの生みの親、カーネルサンダース氏についてお伝えしたいと思いますので、ゆっくりとご覧ください。

カーネルサンダースとはどんな人?
カーネルサンダース:本名ハーランド・デーヴィッド・サンダース
「カーネル」という呼び名はケンタッキー州に貢献した人物に与えられる
「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号
幼少期のカーネルサンダース
1890年アメリカインディアナ州クラーク群で3人兄弟の長男として誕生しました。
カーネルが6歳に時に父親を亡くしています。
そのため、母親が3人の子どもを養えうために缶詰工場に働きにでて、家事はもっぱらカーネルの役目。

そして家事をしているうちに「自分は料理が好きだ!」と気が付いたそうです。
ある日、母親の働き先の工場に自作のパンを作って届けたところ、母親の職場の同僚たちがそのパンの味を絶賛。
その時点でカーネルの料理の腕前は相当だったようですね。
この時めばえた、もてなすことへの感動が、
「おいしいもので人を幸せにしたい」
というKFCの理念につながっているようです。
働き者だったカーネルサンダース

そのうちカーネルも母親を助けたい一心から、小学校に通いながら農場で働くように。
この、厳しい労働が一生懸命働くということの大切さを学んだといわれています。
その後、母親が再婚したものの、義父とはそりが合わず14歳で中学校を辞め家を出ます。
以来カーネルは職を転々とかなりの職種についているようです。
わかっているだけで、
- サザン鉄道
- ノーフォーク・アンドウエスタン鉄道
- イリノイセントラル鉄道
- ペンシルバニア鉄道
- フェリーボートの経営
- アセリンガスのランプの製造販売
- ミシュランタイヤのセールマン
などなど。
軍隊も弁護士も経験しているそうです。
この当時は弁護士の資格はなかったそうなので、頭はきれる人物だと想像できますね。
職は転々としたものの、その働きぶりと勤勉さは相当だったようで、後の人生につながったとも言われています。
30代後半でガソリンスタンドを経営。
そのときの働きぶりは相当だったようです。
朝5時に店を開け、夜9時に店を閉め、そのあとは夜中までタイヤの修理などをするという、陰ひなたの無い働きぶりだったようです。
「自分は、ケンタッキーで自動車の窓をサービスとして洗った最初の人間だ」
と自身で振り返っています。
「自分に特別な才能があったとは思えない。成功できた最大の要因は一所懸命に働いたことだ」(カーネル・サンダース)
ガソリンスタンドの倒産
30歳後半で始めたガソリンスタンドも、1929年の世界大恐慌のあおりを受け倒産することになります。
この時点でのカーネルサンダースの40年は波乱続きだったように思えます。
しかし、その働きぶりには評価していた人物もいたそうです。
1930年、石油会社シェルオイルがケンタッキー州コービンに新しく建てるガソリンスタンドの経営をカーネルにと打診があったそうで、再びカーネルはガソリンスタンドの経営に携わることに。
ひらめき
そのガソリンスタンドの立地は良く、国道沿いということと、カーネルの徹底したサービスで大繁盛したそうです。
そこで、ふとひらめきます。
長時間運転しているドライバーはお腹を減らしている。
「車にガソリンが必要なように、お客さんには食事が必要だ」
そこで、ガソリンスタンドの横の小さな倉庫を改造し、
テーブル1つ椅子6脚だけの「サンダース・カフェ」を始めます。

メニューは、
- フライドチキン
- ハム
- 豆
- ビスケット
というありふれたものだったようですが、清潔さに気を使い丁寧に作られた料理にたちまち繁盛することになったそうです。
カーネルの持って生まれたサービス精神が成功に導いたのでしょう。
「州の料理への貢献」を認められ、州知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられたのはこの頃です。
まさかの事態に

自身のアイデアに確信を持ったカーネルは、いまより良い立地にガソリンスタンドを移転し、その横に広い「サンダース・カフェ」を併設することに。
売り上げは順調に伸び、レストランを徐々に拡張。
レストラン業に専念するためガソリンスタンドを手放しモーテルを併設。
そして1937年にはノースカロライナ州にモーテルを建てるなど事業は順調に拡大していきます。
だがここでまさかの事態が起きます。
1939年、ケンタッキー州のレストランとモーテルを火事で全焼。
50歳目前でいままで培ったものを無くすという事態に、
「もう、レストランはやめよう。」
と考えたそうです。
無理もないですよね。
ですが、「サンダース・カフェ」に訪れる多くのお客さんに勇気づけられ、1941年当時としては大規模な142席もある「サンダース・カフェ」を建設。
再び挑戦を始めます。
1939年、圧力釜を用いた秘伝のオリジナルチキンのレシピが完成したのがこのころです。
高速道路建設で再び危機に

「サンダース・カフェ」は順調にいっていましたが、離れた場所に高速道路が建設されます。
そうなると、どうしようもありません。
車が通らなくなってしまったのです。
売り上げは落ち、店を手放さなければならないようになります。
税金と未払い金を払うと残ったお金はわずかなものだったそうです。
そのときカーネルは65歳でした。
ケンタッキー・フライド・チキンの誕生
すでに自分の時代は終わってしまったのか。(中略)しかし、まだ自分にできることが残っているのではないか。(中略)どんな状況に置かれようと自分からあきらめることはしない。
(藤本隆一『カーネル・サンダース』文芸社文庫)
1955年レストランすべてを失ったカーネル。
65歳の年齢で年金暮らしも考えたそうですが、
「何か自分にできることを見つけて生涯働き続ける」と決意!
そこで考え出したのが、
レストランで最も人気のあった「フライドチキン」の作り方を他のレストランに売るというもの。

1つ売れるごとに5セントの報酬を得る契約だったようです。
そして初めに契約してくれたのが、知り合いのピート・ハートマンという人物。
「ケンタッキー・フライド・チキン」の命名はこの、ピート・ハートマンだそうです。
最後の挑戦

その後、車で寝泊まりしながらレストラン売却から5年後の1960年。
1000件以上のレストランを訪ね歩いた結果、アメリカとカナダで400店舗、1964年には600店舗というフランチャイズ網を築き上げます。
65歳という年齢であっても人生の挑戦にピリオドを打たず、
「自分にできることを生涯やり続ける」
という決心こそが、KFCが世界に広まった原動力になったといっても過言ではないでしょう。
KFCを譲渡
1964年、74歳になったカーネルは、経営権を譲渡し広報担当として世界のフランチャイズ店をまわり、レシピが守られているかなどを視察して回ったそうです。
・譲渡の際の契約内容
サンダースへの終身給与の支給、サンダースが品質管理責任者として役職にとどまり、会社のトレードマークとしてコマーシャルに出演するというものでした。

そして1980年、急性白血病を発症、肺炎を併発し90歳で逝去しました。
生前、カーネルは日本には3度訪れ、最後の訪問先も日本が最後だったようです。
そして、
「日本のKFCが一番気に入っている」
と語っていたそうです。
まとめ
今回は、ケンタッキー・フライド・チキンの生みの親、カーネル・サンダースについてお伝えしました。
65歳から新しい挑戦に挑んだカーネル・サンダース。
とても勇気のある人生だったように感じますね。
様々な困難があっても、立ち上がる人生とても感銘を受けました。
KFCのチキンがこれだけ美味しいのも、カーネル・サンダースが開発してくれたからと思うと、ありがとうと伝えたい気分です。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
