みなさん牧野富太郎(まきのとみたろう)という人物をご存じでしょうか?
2023年度前期のNHK連続テレビ小説「らんまん」が放送されます。
「日本植物学の父」ともよばれる牧野富太郎(まきのとみたろう)がモデルとなったドラマなんですね。
ドラマでは牧野万太郎という名前で、神木隆之介さんが演じられるそうです。
ではモデルとなった牧野富太郎とはどんな人物なのか調べてみると、なかなかの個性のあるかたで、波乱万丈といってもいいぐらいの人生を歩まれたようです。
そのあたりをみなさんに知っていただきたいと思い、この記事を書いてみましたのでゆっくりとご覧ください。

牧野富太郎とはどんな人物?

- 名前:牧野富太郎(まきのとみたろう)
- 生年月日:1862年5月22日
- 出身地:高知県佐川町
高知県出身者といえば数々の有名人物を思い浮かべます。
幕末の偉人坂本龍馬や三菱創設者の岩崎弥太郎、板垣退助なども高知県出身の偉人です。
そしてこの牧野富太郎もそのひとりです。
植物一筋!!
植物を学ぶ方々にとっては牧野富太郎は神に近い存在であるともいえるでしょう。
日本中の野山を歩き続け、多数の新種を発見し1500もの植物の命名も行った近代植物分類学の権威といえる人物だからです。
その研究成果は50万点もの標本や観察記録、「牧野日本植物図鑑」が代表される多くの著書があります。
その研究対象は珍しい植物だけでなく、身近な野菜や草花などありとあらゆるものが対象だったようで、日本植物学の父と言われる所以でもあります。
幼少期
近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた牧野富太郎ですが、わずか3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くして祖母に育てられたそうです。
そのころから植物に興味を持ち始めたようです。
小学校中退し小学校の教員に!

牧野富太郎は少年時代、10歳で寺子屋、11歳で塾と郷校、英語学校などで学び、12歳で佐川小学校に入学するも2年生の時には勉強が物足りなくなり中退しています。
そして野山で植物採集にあけくれるわけですが、その翌年15歳の時に自主退学した佐山小学校で教員として働きだしたというのですからおもしろいですね。
小学校を自主退学した理由として本人は、家が造り酒屋で跡取りだったので、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだそうです。
わずか15歳で教員になるというのは、やはりなにか天才的な素質があったのだとおもいますね。
その後、2年間教員として努めますが、そのあいだ植物への探求心から高価な顕微鏡や高価な書籍を購入したり、著名な学者に会いに行ったりしていたそうです。
実家が裕福だったとはいえ、植物に魅了され一筋に行動を起こすのには驚きますね。
いざ東京大学に!

いざ東京大学にとはどういうことかと思いますが、富太郎が22歳の時驚きの行動をします。
それが当時植物学の最先端をいっていた東京大学理学部の植物学教室へ乗り込んだそうです。
そこで対応したのが初代植物学教授の矢田部良吉氏で、教授に熱く植物愛を語り教室への出入りを許されたというのですから驚きますね。
普通なら門前払いでもおかしくないのに、出入りを認めた教授の心の広さも感服ですが、同じように植物をあいする富太郎が教授ご自身と重なったのかもしれませんね。
新種発見で東京大学出入り禁止に
富太郎28歳の時、江戸川の河川敷において世界的にも貴重な食虫植物を発見します。
その食虫植物に「ムジナモ」と命名し植物学界での名声はさらに高まったのです。

それが妬みを生み、出入りを認めてくれた教授に今度は出入り禁止とされてしまったそうです。
ですが、富太郎はものともせず自身で植物研究に没頭していたといいますから植物愛の深さがわかる気がしますね。
その3年後には、教授が変わったのを機会に呼び戻され助手として採用されたそうです。
結婚するも借金まみれの生活
富太郎26歳の時、東京で知り合った小澤壽衛子(すえこ)と結婚しますが、その結婚生活はといえば質素というか貧乏そのものだったようです。

助手としての賃金は安いというのに、各地に植物採集に出かけ、その費用は莫大なもので、妻の壽衛(すえ)が内助の功で支えていたが、借金は膨れ上がり、借金取りが家まで押しかけてくることもしょちゅうあったそうです。
その頃には生家は完全に没落していたそうで、それでも牧野富太郎の人徳というのか、彼の才能を高く評価している人たちが助けに入っていたそうです。
その中には、同じ高知出身の岩崎家(三菱創業家)が借金を清算してくれたこともあるというのですから驚かされます。
富太郎の研究にはそれだけの価値があり、また富太郎自身の人柄もわかるような気がしますね。
この笑顔にわたしも引き込まれてしまいそうになりました。
引用:高知県立牧野植物園
植物意外に興味なし。名声も必要なし。

富太郎が50歳の時、東京大学の講師となっても研究熱心で65歳の時には、理学博士の学位を受けます。
本人は理学博士というものには興味がなかったらしいですが、周囲の強い勧めで受けられたそうです。
植物のことしか頭になかったのでしょうね。
妻への感謝

東京大学の理学博士を受けた翌年、富太郎66歳のとき妻:壽衛子(すえこ)が亡くなりました。
彼はその前年に仙台で発見した笹に「スエコザサ」と命名。
彼なりの感謝の気持ちを表したそうです。
妻:壽衛子(すえこ)の墓標には
家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹
と妻への思いを刻んだそうです。
晩年の牧野富太郎

1940年(昭和15年)78歳で、いままでの研究の集大成ともいえる「牧野日本植物図鑑」を刊行。
今でも植物学を学ぶもののバイブルとして活用されているそうです。
1951年(昭和26年)には、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員会」が作られ、文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われました。
そして同年設立された文化功労者第1回の対象者となってます。
1953年(昭和28年)91歳で東京都名誉都民。
1956年(昭和31年)94歳の時「植物学九十年」・「牧野富太郎自叙伝」を刊行され、高知県佐川町の名誉町民、高知県に牧野植物園が設立されることが決定されます。
1957年(昭和32年)、94歳で死去。
没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与されました。
牧野富太郎の植物に生涯をかけた人生に感銘を受けます。
ここまで没頭できるものに一生をささげた生き方がとてもかっこいいですね。
牧野富太郎の子供は?

牧野富太郎には三男四女の子供がいたようです。
- 長女・香代子
- 次女・鶴代子
- 長男・春世
- 次男・百世
- 三男・勝世
- 三女・己代子
- 四女・玉代子
残念ながらこれ以上の情報はないのですが、きっとその子孫の方々は先祖である牧野富太郎の生きざまがドラマ化されるのは、とてつもなく嬉しいことだと思います。
まとめ
画像:佐川町
最後までお付き合いありがとうございました。
今回のドラマ化には牧野富太郎の出身地高知県佐川町で2018年7月に発足された『「朝ドラに牧野富太郎を」の会』の思いが叶ったものです。
これには、地元の方の喜びもひとしおだと思います。
おめでとうございます。
今回の記事は、もしかしたらネタバレになるかもですが朝ドラ「らんまん」をみなさんと一緒に楽しめたら幸いです。
