彭帥(ほうすい)さんは中国を代表する女子テニスプレイヤーの一人です。
この記事では、彭帥さんの若い頃やwiki経歴。結婚や夫、子供、微博(ウェイボー)の全文をご紹介しています。
彭帥のwikiプロフィール | |
名前 | 彭 帥 |
読み | ポン・シュアイ |
ピン音表記 | Peng Shuai |
日本語読み | ほう すい |
国籍 | 中華人民共和国 |
出身地 | 湖南省湘潭市 |
生年月日 | 1986年1月8日 |
年齢 | 35歳 (2021年11月現在) |
職業 | 女子プロテニス選手 |
身長 | 173cm |
体重 | 61kg |
利き手 | 右 |
異名 | 中国女子テニス界の猛女 |
彭帥(ほうすい)の若い頃やwiki経歴|結婚や夫、子供、微博(ウェイボー)全文
1986年に生まれた彭帥さんは、父親が警察官という家庭で育ちました。
おじさんに勧められて8歳からテニスを始め、2001年の15歳で女子テニス国別対抗戦「フェドカップ」に中国代表として初出場。
その後2003年にプロテニスプレイヤーになり、2004年のウィンブルドンで4大大会の本戦デビューを飾りました。
彭帥さんのキャリア自己最高世界ランキングは、シングルス14位(2011年8月22日)、ダブルス1位(2014年2月17日)。
4大大会のダブルスでは、2013年の全英、2014年の全仏で優勝しています。
彭帥(ほうすい)さんの結婚や夫、子供は?
彭帥さんの結婚や夫、子供についても調べてみました。
彭帥さんは現在35歳ですが、そのような報道はされていないので、おそらく結婚はしていないと思います。
微博(ウェイボー)で告白した内容の全文を日本語で翻訳
彭帥さんが微博(ウェイボー)に投稿した告白文が話題になっていますが、「JBpress」で全文が翻訳されていました。
うまく言えないのは分かっている。言っても仕方ないことも。でもやはり明かしておきたい。私は多くの虚偽不実を犯した。自分がよい女の子でないと認める。悪い悪い女の子だ。
2、3年前に、あなた張高麗副総理は退職したわね。それで天津テニスセンターの劉先生を通じて、また私に連絡してきた。テニスを一緒にやろうと。
それで北京の康銘ビルで、午前中にテニスをやった。その後、あなたと康潔夫人に連れられて、あなたの家に行った。
その時、あなたは私を、自分の部屋に引き入れた。そして10数年前の天津の時と同様、私と性的な関係を結んだんだわ。
あの日の午後、私はとても恐かった。まったくあのようになるとは思っていなかった。でも一人で閉じ込められて、奥様が望むこととは決して思えないことをしてしまった。
7年前に私たちは、性的関係を持ったことがあった。その後、あなたは共産党常務委員に昇進して北京へ行き、私との連絡を絶った。なのにいまになって、なぜまた連絡してきたのか。そしてなぜ私を家に引き入れ、私に関係を迫ってきたのか?
私は証拠を持っていない。証拠を持って帰るなんて不可能だった。その後、あなたはずっと否認している。でも確かに、あなたが先に私を好きになったのよ。そうでなければ、私があなたのような人と接触できるはずもない。
あの日の午後、私はまったく同意していなかった。それでずっと泣いていた。夕食はあなたや康潔おばさんと一緒に食べた。あなたは「宇宙はとてもとても大きく、地球は宇宙の一粒の砂だ。そして私たち人類は一粒の砂にもならない」などと言い、他にもたくさんのことをしゃべった。
それは私を、思想でくるめてしまおうとしたからだった。夕食の後、私が望んでもいないことをしたくせに、「あなたを恨んでいる」と言い出した。また、「この7年、あなたを忘れたことがなかった。あなたを好きになれる」とも言った。私は7年前、あなたの愛情に同意してしまったことが恐ろしくなり、混乱してきた・・・そうだ、確かに私たちは、性的関係を結んだのだ。
感情とは複雑なもので、うまく言えない。その日から、私は再び、あなたへの愛のフタを開けてしまった。それからのあなたとの日々で、あなたはとてもとてもいい人だった。私によくしてくれた。私たちは近代史から古代の時代まで話題にし、あなたは私に万物の知識を語り、それは経済哲学にも及んだ。本当に話しきれないほどの話題だった。一緒に将棋を指し、歌を歌い、卓球やビリヤード、それにテニスもやった。私たちはずっと遊び続けても楽しめるほどで、性格はピッタリ合い、すべてがうまく支え合って立っているようだった。
私は小さい頃から家を離れ、内心では極度に愛情に飢えていた。いろいろあったけれども、私はもともと自分でよい子と思っていなくて、自分のことが嫌いだった。なぜこんな世界(テニス界)に来てしまったのだろうと、自身を恨んでいた。
あなたは私との時間を過ごすうちに、こう言った。「あなたを愛している、とてもとても愛している。来世では、私が20歳であなたが18歳の時に知り合いたい。私はとても孤独なんだ。一人でとても憐れな身なんだ」。
私たちの話が尽きず、話し終わらないある日、あなたはこうも言った。「私はこの立場に立っていて、離婚もできない。もしも私が山東にいた時分(2002年~2007年)に知り合っていたなら、まだ離婚もできたろう。だがいまはもうダメだ。こうやって静かに、あなたに寄り添っていたい」。
そうやって始まった頃は、まだよかった。しかし日が経つにつれて、少しずつ変わっていった。あまりに多くの不公平と侮辱。毎回あなたは私を、あなたの奥さんのところへ行かせるものだから、あなたの奥さんが私に投げつける聞くに堪えない侮辱の言葉、各種の冷笑や熱っぽいあげつらいの言葉を暗記してしまったわ。私が、「アヒルの舌が好物だ」と言ったら、康潔おばさんは私を突っついて言った。「何て気味悪い」。
私が「冬の北京の大気汚染はひどい」と言ったら、康潔おばさんは言った。「それはあなたたちが住むところの話でしょう。私たちが住むところはそんな感覚ないわ」。こんな話をたくさんたくさんした。あなたが横にいると、彼女はそんなことは言わない。私たちと一緒で、二人っきりでいる時と、他に人が混じっている時とでは、別人格なんだわ。
私はあなたに言ったことがあったわね、こんな話を聞くと受け入れがたい気持ちになるって。あなたと知り合った日から現在まで、あなたは私に一銭のカネも使ったことがないし、私にどんな便宜も図ってくれたことはない。でも名分というものはとても重要だわ。いま起こっていることの一切が、ざまあみろ、自業自得なんだわ。
終始一貫して、あなたは私に、二人の関係を一切秘匿するよう命じてきた。あなたと男女の関係になっていることを、私の母親にも告げてはならないと言った。いつも母が車で私を、西什庫教会のところまで送ってくれて、そこであなたの家の車に乗り換えて、初めてあなたの家に入れる。だから母はずっと、私があなたの家に、麻雀をしに行っていると思っていた。
私たちのこうした生活は、実際の生活の中で透明人間のようなものだった。あなたの妻は、まるで雍正帝の皇后(人気ドラマ『甄環傳』の人物)ね。そして私は、たとえようもないほど惨めな存在だわ。私は常々、《自分は人間だろうか?》と自問していた。まるで自分が生きた屍、歩く肉塊のようだと感じていた。
毎回、きれいに装う。どの自分が本当の自分だろう? 私はこの世界にやって来るべきではなかったのだ。でも死ぬ勇気もない。何だか言ってることが短絡的みたいだけど。
でも思っても見なかったけど、(10月)30日の夜、あなたと強く言い争って、あなたは言った。「(11月)2日の午後に、ウチでまたゆっくり話そう」。そして今日(2日)のお昼、あなたは私に電話をかけてきて、「また連絡するから」と言って切った。それっきりだ。「また日を改めて連絡するから・・・」。こう言い繕うのは、7年前と同じだ。
《終わったのだ》。もう遊びたくなんかないし、必要もないのだ。あなたは言う。「私たちは何も取り引きしていない」。その通りだ。私たちの間には、感情も金銭も権力も、何もなかったのだ。
でも私には、この3年間の感情を、放り捨てる場所がない。もう会うこともままならない。あなたはいつも、私が録音器を持っていないかとか、証拠を残そうとしていないかということを恐れていた。
そうだ。私自身の存在以外に、証拠を示すものは残っていない。録音も録画もしていない。ただねじ曲げられた私の真実の経歴があるだけだ。
高位権重の張高麗副総理におかれましては、過度に恐れることもないと思うでしょう。でも私は、たとえ石にぶち当たる卵であれ、火に飛び入る蛾であれ、自滅する覚悟で、あなたとの間にあった事実を明かす。
あなたは知恵と謀略を使って、必ずや否認し、もしくは私に反駁するだろう。どうぞ好きになさって下さい。あなたはよく言ってたわね。母親が天から自分を守ってほしいと。私は人母にそぐわない悪い女なんだわ。
あなたは息子と娘の父親でもある。私はあなたに尋ねたことがあったわね。「あなたは自分の娘にも、私にやらせているようなことをやらせることができるの?」。
あなたはこの世で自分がやってきた一切のことを背負って、後日安心して母親に会えるの? 私たちはとても厳粛な気がする・・・
出典:JBpress






